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若御子神社宮司 ご紹介

 

 若御子神社の御創立は、当社歴代神官守屋家の伝記によれば、今から1280有余年程前、人皇第45代聖武天皇の御宇(奈良時代)天平年間(730年代)上田野の主峰、当時「神山」と称された今の若御子山の頂きに、守屋社家の祖先が十二社宮の祠を祀られたのが、当社御創立の起源と伝えられております。
 人皇第50代桓武天皇の御宇(平安時代)延暦13年(794年)に神山の峰岳に、守屋家の祖先がお社を造営し、御祭神(神日本磐余彦尊)神武天皇を奉斎し、「若御子十二社宮」と称されました。
 天文14年(1545年)に足利将軍義晴が若御子山の峰岳より旧社地若御子に社殿を造営し遷座、「若御子十二社権現宮」と称されました。
 明治2年(1869年)に「若御子神社」と名称変更され、大正5年(1916年)に若御子山より現在の地に遷座されました。

 

 当社は奈良時代に守屋社家が創建されてから近年まで、何代にも渡り守屋社家が神官を勤め、大神様をお守りしてまいりました。
 しかし、太平洋戦争にて、守屋社家血筋である社掌・守屋祐治氏が、出兵した戦地にて凶弾に倒れ、帰らぬ人となってしまいました。

 戦後、占領軍GHQの圧力により従来の体制が廃止され、新たな宗教法人として「神社本庁」が発足し、宗教法人法に従って組織的な神社運営が行われることとなりました。
 およそ1200有余年に渡り、血縁的関係で継承されてまいりました守屋社家の氏神様は、戦後を期に、地縁的関係の結びつきが強い「村社」へと変遷し、神官・神職も守屋社家から「神社本庁」系列の役職者へと受け継がれることになりました。
 現在は秩父市荒川上田野の旧家、笠原家の二級上宮司・笠原忠男氏が主宰となり、責任役員と奉賛会、氏子総代の協力の下、当社若御子神社をお守りされております。

笠原忠男 宮司 経歴

笠原忠男 宮司

 

年月日経歴
昭和19年11月11日秩父郡荒川村上田野(現秩父市) 生誕
昭和42年 3月31日法政大学文学部 卒業
昭和42年 4月 1日埼玉県教育委員会 荒川村立荒川中学校教諭 就任
昭和61年 4月 1日埼玉県秩父青年神職会長 就任
昭和63年 3月 1日若御子神社 宮司 就任
平成15年10月 1日荒川村公民館長 就任
平成26年 4月 1日秩父市荒川若御子町会長 就任
令和 2年 5月 1日神社庁神職二級上、及び明階 拝命

 

笠原家代々の祠官について

古文書_1

 笠原家は代々神職の家系であり、秩父市荒川上田野地域における神社・氏神様の祠官(しかん)として、人々の信仰や地域社会の秩序に尽力されてまいりました旧家です。
 ※上記写真は320有余年前、元禄9年(1699年)発行の神官許可書。

 江戸末期から明治初期においては、医学・医療などはまだまだ庶民には遠い存在であり、特に江戸から遠く交通手段も無い山村にあっては、伝承的民間療法に頼らざるを得ませんでした。
 笠原家の古文書によると、この時代の先祖には、祠官のかたわら人体についての知識を広め、病める地域住民からの依頼により各家を回って、祈祷・おまじないも含めた民間療法を伝授されていた神職が存在していたことがうかがい知れます。
 例えば、昔は「イボ取り」の名人や、その御利益を謳った寺社などが存在し、実際に祈祷によりイボを消滅させた実績が多くあったそうです。また、密教系の修験者においては病魔を封じ込む作法を行い、これを土中において腐らせる秘技により、病人を救ったとされています。

 医学・医療が彼方だった時代、庶民の病苦はそのようにして癒やされてきたのも納得できることです。
地域の氏子に病があり、それを大神様にすがり、神職が助力する。
必要にして自然発生的に行われてきた神職と住民との信頼関係だったのではないでしょうか。

古文書_2

 

笠原家歴代の神職。
笠原家は過去火災に見舞われ、多くの古文書を焼失しております。
僅かに焼け残った古文書より、下記の歴史がうかがい知れます。

役職氏名祠官裁許書年号生誕
神明社祠官笠原土佐守藤原吉久1699年(元禄9年) 
神明社祠官笠原摂津守藤原吉正1732年(享保17年) 
祠官笠原土佐守藤原吉宣1755年(宝暦12年) 
祠官笠原摂津守藤原吉次1791年(寛政3年) 
祠官笠原近江正藤原愷完1808年(文化5年) 
祠官笠原陸奥正藤原愷弼1844年(天保15年) 
八幡宮祠官笠原近江正藤原当定(笠原右仲?)1862年(文久2年) 
祠官笠原大海 1838年(天保9年)
祠官笠原兵馬 1868年(明治1年)
祠官笠原政太郎 1899年(明治32年)
若御子神社宮司笠原忠男 1944年(昭和19年)

 

古文書_3

 

若御子神社 歴代の神職

役職氏名帰幽(没年月日)
神官守屋貞澄
神官守屋貞政
神官物部貞広
11代神官従五位大和守兵部之丞 物部吉清永禄12年4月30日(1569年)
12代神官従五位日向守右膳 物部吉益慶長18年12月3日(1613年)
13代神官従五位山城守宮内 物部吉次寛文5年5月19日(1665年)
14代神官従五位河内守内膳 物部吉政元禄6年9月8日(1693年)
15代神官従五位摂津守右膳 物部吉糺享保6年12月6日(1721年)
16代神官従五位常陸守佐傳 物部吉明宝暦2年9月2日(1752年)
17代神官従五位大和守兵部 物部吉晴寛延3年2月5日(1750年)
18代神官従五位和泉守左膳 物部吉唯文化15年12月30日(1818年)
19代神官大和守右膳 物部吉春文化3年1月12日(1806年)
20代神官大和守宮内 物部多門慶応4年10月21日(1868年)
21代神官豊前守内膳 物部吉信明治21年5月3日(1888年)
22代神職豊後守多牧 物部吉久明治5年2月29日(1872年)
23代神職守屋豊前森重
24代社掌一等司業守屋祐治昭和20年8月15日(1945年)
戦後は神社本庁による新制度にて、神職は守屋社家より離れる
1代社掌大沢勝太郎
2代社掌大野宗治
3代社掌峰 慶蔵
4代宮司薗田武男
5代宮司岩田昌五昭和48年7月12日(1973年)
6代宮司笠原政右衛門
7代宮司岩田真久昭和63年1月8日(1988年)
8代宮司二級上笠原忠男現職

※代数表記は守屋社家が婿養子を迎え、物部性に改姓してからの数。
また、戦後、守屋社家以外の家系に移ってからの数。